2006年02月03日

時計仕掛けのオレンジを見ながら、「僕たちは本当に自由になったのか」をかんがえてみる

 昨日、橋本龍太郎が好きなゼミ生K君からメールがありました。K君は「貴重な」時間を割いて、僕の日記を読んでくれているとのこと。そのK君はゼミで「11月革命」と「1月革命」を起こし、僕のゼミに歴史を刻んでくれたわけですが、僕にとってはある意味貴重な存在です。なぜなら、S.キューブリックの映画をみるきっかけを作ってくれた人ですからね。

 キューブリックの作品は大体見た気がします。見たといっても、「時計仕掛けのオレンジ」「博士の異常な愛情」「アイズワイドシャット」「スパルタカス」「フルメタルジャケット」「21世紀宇宙の旅」くらいでしょうか。ほかにも見た気がします。

そのK君が一押しの作品。それが「時計仕掛けのオレンジ」なわけです。今からその評論をしようと思っているわけですが、その前に断っておくことが二点ほどあります。まず、僕はこの映画は一度しか見ていなく、しかも数ヶ月前です。よって内容の記述に不備がある可能性は否定しきれません。

あともう一点。これは「作品を理解する」とはどういうことか、ということにかかわることです。僕は「ある作品は○○を言っているんだ」という作者の意図を探す解釈の仕方は、誤っていると思います。誤っているのは正確ではありませんね。つまり、「ある作品を見たときに、それをどう感じることができるか」そして「それを感じられるだけの『引き出し』を自分の中にどれだけもっているか」ということこそがきわめて重要だと思います。

前者のような解釈は受験勉強の弊害が大きいと思います。特に国語ですが、文章を読ませて、「ここは何を言ってるんですかね?」的な問題がでる。これには「正しい」答えがあって、それから外れるとまるで点がこないわけです。センターだと8点くらい飛んで胃がキリキリするわけですねw もちろんセンターにはセンターなりのメリットがあるのですが、あのような勉強(これは受験勉強一般に言えます)を反復することにより、このような感覚が自分の中で「条件化」(これは「オレンジ」と関係するします)されてしまっているのではないか、とつくづく思います。特に僕の大学のような世間でいう高偏差値大学の学生と話していると強く感じます。ちなみに僕はペーパーがまったくできない人間で、簡単に言えば、愚痴っているわけですw

ともかくウダウダといっているわけですが、ある作品を僕が解釈する場合に、僕の中にどのような「引き出し」、もっといえば、「データーベース」があるかが重要なのであって、「違う解釈をするやつは駄目だ」とか言われるのはちょっと違うなぁと感じちゃうわけです。もっといえば、ある作品を理解できなかった場合には、僕の中の「データーベース」が少なかったということです。僕からすれば、世間で言う「教養」がいるとしたら、こういうとき「だけ」であって、大学の優等生のように、偏差値教育的に講義に出て「効率的」情報を得ていくのも、なんなのかなぁ、と感じてしまいます。

以上をまとめますと、作品を見る場合には、僕らの今までの知識を総動員して(それはもちろん経済学とかであってもよい)みるべきなわけです(すいません、まとまっていなくて)。


 じゃあ「オレンジ」の内容に入りましょう。
 
 
鬼才スタンリー・キューブリック監督の描く傑作SF。近未来、毎日のように暴力やセックスに明け暮れていた不良グループの首領アレックスは、ある殺人事件で仲間に裏切られ、ついに投獄させられてしまう。そこで彼は、攻撃性を絶つ洗脳の実験台に立たされるが……。赤一色の画面からオレンジ色に変わってゆくオープニング、「雨に唄えば」のメロディに乗せて繰り広げられるレイプ・シーン、荘厳なバロックやクラッシックをカバーした電子音楽、広々としたレコード店の独特のセットなど、映画全編にシニカルな演出が満ち、なおかつブラックなテーマをポップに昇華させるという、キューブリック監督の手腕が冴え渡る。「2001年宇宙の旅」と並んで、SF映画という枠におさまらない突出した輝きを持っている作品だ。

 キューブリック作品で最もカルトな人気を誇る、ウルトラバイオレンスSF作品だ。麻薬、暴力、盗み、暴行など、悪の限りを尽くす近未来の不良グループ。リーダー格のアレックスは、ある盗みの最中に仲間の裏切りで捕まった。その服役中に、悪人を善人に変える奇妙な洗脳実験を受け、暴力を嫌悪する無抵抗な人間となって娑婆に戻される。しかし、そんな彼を待っていたのは、かつて自分が暴力の対象にしていた者たちからのすさまじい報復だった。
アナーキーな若者の過剰なまでの暴力嗜好を、芸術的かつポップなセンスで大胆に映像化した。一度観たらとりつかれるほどの妖しい魔力に満ちた、永遠のバイブル作品だ。


 
僕が要約しても良かったのですが、めんどくさいのでアマゾンなどの解説を貼り付けました。

さて、まずは具体的な話を入る前に補助線を引くこととします。いきなりでっかい話になりますが、近代という時代においては、物事を「二分法」で考えるくせがあります。「二分法」とは、ある種の「対立軸」をおくことで、その差異を際立たせるということです。ちょっと具体例を出しますと、たとえばナチスというのは「アーリア民族共同体」と「ユダヤ人」という対立軸を持ったわけですし、共産主義というのは、「プロレタリアート」と「ブルジョアジー」という対立軸をもったわけですね。それ以外にもいくらでも例を出せますが、このような「対立軸」を作るクセが僕らの世界には多いようです。

それで、「それだけ」なら特に問題点はなさそうです。単に対立軸をつくって、自律的に共存してくれるならば良いわけですよね。でもそういう風にはいかないわけです。対立軸を作ったとたんに、その対立をより深めていくようなメカニズムが作用しだします。具体的には、ナチスがユダヤ人を迫害したり、あるいは、プロレタリアートがブルジョアジーを打倒してみたり、といった具合にです。特に後者が面白いのは、ブルジョアジョーを排除した後に、共産圏を作った後ですら、「よりブルジョアジー」的な要素を排除しようとするメカニズムが存在するということです。具体的には、中国での文化大革命が思い出されるのではないでしょうか。

このように大雑把ですが、以上をまとめますと、「僕らの世界では二項対立を持ちやすい」ということと「二項対立には排除のメカニズムがあって、そのメカニズムが動き出したら簡単には止まらないぞ」ってことです。ここまでグダグダと話してきたわけですが、もちろん、「時計仕掛けのオレンジ」もこのような対立軸が関係あります。じゃあ、この「時計仕掛けのオレンジ」にはどのような対立軸があるのでしょうか。結論から言えば、「自然的なもの」と「人間的なもの」という対立です。

もっと具体的に話しましょう。設定としては未来のSFです。また横道にそれますが、特にSFの作品にはこのような設定が多いのではないでしょうか。「ナウシカ」が典型的ですね。つまり、「自然」と「文明」の対立の行き着いた先が、荒廃した地球であったと。荒廃した地球に、それの対立がまた出てこようとし始め、ナウシカは同じ鉄を踏まぬよう「自然」側につく、という趣旨だったと思います。

ちょっと話がずれました。「SF」というのはもちろん「science fiction」なわけですから、「science」=「文明的」なものであり、文明側の理性的な人間が「野蛮」な「自然」をコントロールした結果、科学都市ができましたね、みたいな設定があるわけです。「オレンジ」の主人公、アレックスは非常に「野蛮」であり、攻撃的で、ある種の「動物性」=「自然」を感じさせます。科学都市では、その対立軸による排除から、「野蛮」なアレックスを排除しようとします。作品もそういう構造になっていて、アレックスは案の定、牢屋にぶち込まれてしまうわけですね。

この作品が面白い、もっといえば、リアリティーがあるのは、この排除のメカニズム、近代都市の「狡猾」さ、です。見た人はわかると思いますが、牢屋にぶち込まれたアレックスは、洗脳をうけます。アレックスが「野蛮」な行動ができないように、悪いことをしたら嘔吐してしまうように洗脳してしまうということです。心理学の言葉で言えば、「条件化」してしまうということでしょうか。アレックスの中の「野蛮」なものは、「牢獄にぶち込む」という「古い」排除のメカニズムではなく、その人自身が「野蛮」な行動をできないようにしてしまう、という「新しい」形で排除するということです。

この作品の重要なことは、近代はこのような暴力に似た手法を使うことにより、僕らがこのような「ある種の条件付け」をさせられ、「自然をありありを見つめる視点」を失ってしまったというアイロニカルな現実です。このような副作用は、アレックスには、ベートーベンの第九が聞けなくなってしまうという形で現れます(アレックスは第九を聞くと『嘔吐』をしてしまう)。ベートーベンといえば、ドイツであり、ドイツといえば「自然」を感じさせる要素に満ち溢れています。ワーグナーを筆頭として、自然的価値観を意識した音楽は大量にあるように見受けられます(ただ、このあたりの音楽史は僕の知識不足で、ベートーベンの第九が『自然的』であるか、という歴史的情報はありません。ただナチスが「自然的」であり、かつ、ナチス以降のドイツでは「ドイツ文化」に対する拒否反応が以上に強いことを考えると、このような類推は外れていないように感じます。ドイツ文化といったらベートーベンとかカントでしょう。ただ完全に勉強不足ですね)

つまり、こういうことです。僕らの社会は一見すると、「自由」になった。「自由」とは、「物的自由」です。「物的自由」の論理は「自然」と「文明」という二項対立をうみ、「物的自由」より享受するためには、「文明」=「science」を高めていく必要があります。その背後には、冷徹な「排除のメカニズム」が存在し、現代のような高度な「自然性の排除」を突き詰めると、逆に「精神の自由」がなくなってしまうのではないか。
「精神の自由」というより、「発想の豊かさ」と言ったほうがよいでしょうか。それでも不適切な気がします。つまり、ベーとベーンの第九を美しいと思えないような輩が近代によって増殖されたリアリティーってことですね。それは現在の日本のJPOPをみれば、かなりリアリティーがあるのではないでしょうか。でもそれをいうと、やはりミスチルや浜崎あゆみ批判までいくので、それはちょっと具合が悪いw

話を戻します。近代によって失われる「自由」は、政府が表現の自由を認めないといった「わかりやすい」抑圧ではなくて、僕ら自身が「自然的」なものに触れたとたんに「嘔吐」を催すような「条件反射的」な形で現れているのではないだろうか。キューブリックが描きたかったことは、このような現代のアイロニーだったのだろうと思います。

ただキューブリックの怖い(?)ところは、僕らが「人権」とか「平等」への懐疑の言葉を聴いたとたんに、「条件反射的」に嘔吐を起こす現状さえ、批判的に見ている気がします。このあたりは前半の映画の描き方から感じるのです。つまり、やたらと残虐なシーンを使い、「お前ら、これらをみると条件反射的に気持ち悪くなるだろ!どうだ!」とキューブリックが語りかけてくる感じがします。皆さんはどうでしょうか。

補足
僕は経済畑の人間なので、文学部等の人間が見たらやや稚拙な評論ですが、優しい心で接してやってください。あと、読み返したらひどい文章ですが、日記なので書き直すインセンティブがありません。数十分で書いたわけですから勘弁して…。
posted by ninja at 19:09| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
>ある作品を僕が解釈する場合に、僕の中にどのような「引き出し」、もっといえば、「データーベース」があるかが重要なのであって

まさに社会学の世界ですね。
他者理解のプロセスと同じ。
暇過ぎて死にそうになったら社会学の話を聞きに行きます。
Posted by 革命児K at 2006年02月05日 11:53
>暇過ぎて死にそうになったら

僕の認識ではK氏はいつも暇すぎるのですが、どうでしょうかw 
Posted by 忍者 at 2006年02月06日 04:26
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